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“学校"という場に必要なこと〜人間とは何者か?〜

 私たちは、2023年に、ここ奈良の地で、新しい学びの場づくりをスタートします。

「学校」というこれまでのシステムに代わる本当の学び場。

子どものみならず大人たちもそこに集い、自然体で支え合い、成長し合っていける場。

畑を中心にしたコミュニティをベースにして、50年後、100年後のより良い未来を築いていくために活動していける場。

そんな場を、私たちは生み出していきます。

「理想的」すぎるように聞こえるかもしれません。でも、実際に動き出す誰かがいなければ、理想は永遠に実現しないでしょう。そして、明るい未来への展望が持ちにくい今の時代だからこそ、あえて理想を語る必要があると感じます。

 月に1回このブログで、少しずつ私たちの想いを綴っていきたいと思います。

 

 第1回の今日は、「“学校”という場に必要なこと〜人間とは何者か?〜」です。

 

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1 “学校”という場に必要なこと〜人間とは何者か?〜

 

 今になって振り返ってみると、私は、小さなときから「学校」という場所にある種の“違和感”を感じ続けていたようです。私たちが子どもの頃は、学校というところは「絶対に通わなければいけない場所」でしたが、そこにいると、何か自分の居場所ではないような居心地の悪さを感じ続けていました。まるで小さな服の中に無理やり閉じ込められたような窮屈さ、という感じでしょうか。

 

 例えば、そこには「校則」がありました。

思春期になり、自分が他人にどう見られているかが気になり始めた頃、私は坊主頭にすることが嫌で嫌でたまりませんでした。今ではそんな学校は少なくなってきているかもしれませんが、その当時は地方の学校には厳しい校則(“ブラック校則”)がたくさんあり、その中に、中学校までは男の子は丸刈りにしなければならないという校則があったのです。せっかく髪が伸びてきて、不格好な頭の形が隠されてきたちょうどその頃に、また髪を短く切らなければなりません。散髪をした翌日は、学校へ行くのが心の底から嫌でした。

 ほかにも、ホックを締めると首の周りが痛くてたまらない詰め襟の学生服、休日に外出する際の制服着用、さらに、その制服の下に着る服の色の指定といったように、いろいろなことが細かく決められ、型にはめられている息苦しさを感じていました。

 「どうして?」という私の疑問にきちんと答えてくれる教師もいませんでした。

 

 「勉強」にも違和感を持っていました。なぜその教科を学ばなければならないのか理由もわからず、一日何時間も勉強せよと言われ、否応なしにテストの期間がやってきて、点数をつけ、比べられる毎日。もちろん面白い内容がまったくなかったとは言いませんが、基本的に、興味があるから学ぶのではなく、否応なしに学ばされるという印象しかありませんでした。すべては良い高校、大学に入るため。そして良い会社に就職して、幸せな生活を送るため。そう言われました。そのレールから外れることは、幸せな人生から外れてしまうこと、子どもの私は、無意識のうちにそう感じていました。

 

 考えてみたら、私は、集団の中にいることが苦手でした。でもそれでいながら、たった一人では何もできないという不安感〜それは私の幼さからきていたのかもしれませんが〜を持っていましたので、みんなの中にいてその中で守られていることに安心感を感じてもいました。でも、矛盾するようですが、その中にいると本当の自分が出せないという窮屈さをも感じていました。もちろんその頃は、そのことに意識的であったわけではありませんが。

 

 大人になって、なぜか教師という職業を選び、公立中学校の教師になってからも、その“違和感”は消えませんでした。集団としての子どもたちをどうまとめるかという学級「経営」に頭を悩ませる毎日、テストのために進度を合わせ、点数をつけ、評価する日々。「文部省」(かつての文部科学省です、念のため)や教育委員会からの通知や通達にしたがって、さまざまな調査や指示が降りてきて、それに従う毎日。“荒れる”子どもたちをどう指導するかというテクニック。その中で矛盾を感じながらも、その中で順応して働かざるを得ない自らの在り方に対する矛盾。「教師」というきちっと型にはめられた服を来て、そこから外れないように必死で働いているうちに、私は体と心を壊してしまいました。

 

 「学校って一体何なのだろう?」「なんのために“教育”が必要なのだろう?」「本当の教育、学校とはどんなものなのだろう?」 それが、私の心の奥底でずっと聞こえいて、今でも聞こえ続けている“声”です。

 

 シュタイナー教育や人智学を学び始めてから、その違和感の原因が少しずつ明らかになってきました。すべてを単純化することはできませんが、もしそれを一言でまとめてしまうなら、どのような人間観を持つかということになるのだろうと思います。

 19世紀以降、目に見えるものがすべてという唯物主義の波が世界を覆いました。それに基づく自然科学の成果により、私たちの生活は豊かになり、便利になり、それと同時に、精神的なものには疑いのまなざしを持つ風潮が生まれました。経済至上主義とともに誰もが豊かな生活に憧れ、科学的な証明ができないものには信を置かない考え方が当たり前になっていきました。1990年代後半には新興宗教の事件もあり、その影響で、宗教や精神世界について言葉に出すことは教育界ではある種のタブーになっていったように、私には感じられていました。

 そして、そのような環境の中にいればいるほど、私の心の中の声は抑えられ、かき消され、心と身体は悲鳴をあげていたのでした。

 

 印象的なエピソードがあります。

 かつて「荒れた」学校に勤務していた頃、「問題」を起こすグループのリーダーだったある生徒がいつも吐き捨てるように、こう言っていました。

「今しかできないことをやるんだ!」「何をしようが俺の勝手だ!」

 渡り廊下で大音量のロカビリー音楽をかけながら、タバコを吸い、ツバを吐き、一心に踊る彼らのグループを、他の“真面目は”生徒たちは、羨望のまなざしで鈴なりになって眺めていました。

 「そんなことはない」私はもちろんそう感じていました。でも、その時は返す言葉を見つけられませんでした。そして、後年、人智学がその答えを与えてくれたのでした。

 

 私たち人間は、繰り返しこの世に還ってくる。そうして、たくさんの人生を生きることで、自分の魂をより良いものへと変容させていく。孤独の時代を超え、真理につながり、他の人々を尊重することを学んでいく。そして、いつか誰もが互いに支え合い、幸せに暮らせる、愛と思いやりに満ちた共同体の時代が実現できるように努力を続けていく。

 だから、刹那主義ではダメなのです。人生が一回きりしかないと思うからこそ、自分だけは幸せになりたいという願いが生まれ、エゴが顔を覗かせます。それに基づいて、他の誰かと比較し、競争する社会が生まれ、貧富の差が拡大し、人生はますますギスギスしたものになっていくのです。

 

 私たちは何者なのか? どこから来てどこへ向かうのか? これらの問いに答えられる人間観をしっかり持てば、私たちが今いる時点が見えてくるでしょう。そして、そこからどのように変容していく必要があるのかもわかってくるでしょう。

 本当の学びがある「学校」で何を行う必要があるのかということも、必然的に導き出されるはずです。

 私たちは、そういう視点を持って、新たな学校を創り出そうとしています。

 

栄 大和